当社の峠地区には、境内にあるものも含め、多くの歌碑が残されています。
のぼる陽盤 浅間の雲を はらひ徒つ
天地霊あ里 阿可つきの光
(のぼるひは あさまのくもをはらいつつ
あめつちれいあり あかつきのかげ)
解題:昇る朝日が浅間山に掛かる雲を払い除け、まさに天地に霊が満ち満ちている。
詠人:杉浦翠子
年号:昭和42年
型式:自然黒御影石
丈:60cm 幅:90cm
場所:熊野神社境内
夏木立 花は薄井の 峠かな
(なつこだち はなはうすいの とうげかな)
慶長19年(1614年)4月末碓氷峠を登ってきた伊達政宗が詠んだとされます。
詠人:伊達政宗
年号:慶長19年(1614年)
場所:熊野神社境内
日の暮れに うすひの山を こゆる日は
せなのが袖も さやにふらしつ
詠人:万葉集 巻14よみ人知らず
解題:日暮れに碓氷峠を超えてゆく日、家の門でちぎれんばかりに手を振って別れを惜しんでくれた夫(家族)の姿が目にちらついて離れない。
ひなくもり うすひの坂を こえしだに
いもが恋しく わすらえぬかも
詠人:万葉集巻20 他田部子 盤前
古より峠は出会いと別れの場所です。防人(九州の防衛をする人々)の命を受けて出かける人がこの地にも沢山いました。家族にとってみれば、おそらく今生の別れでした。碓氷の坂(峠のこと)を越えるとき、今別れてきた妻(家族)のことが恋しくて忘れられないと別れの心情を詠っています。
年号:昭和42年石碑建設
型式:自然石御影石 本碑(左)
丈:46cm 幅:76cm
場所:見晴台(石畳を登りきった右側)
山深水寒
(山深くして 水寒し)
裏面「近藤友右衛門頌徳碑」
見晴台は昔、城山大王塚と呼ばれました。この山を所有した近藤友右衛門翁はこの展望をこよなく愛し、ここに私財を投じて見晴台を整備しました。その後、軽井沢町に見晴台を寄付し現在に至っています。この碑は近藤友右衛門翁に感謝し、軽井沢町が建設したものです。
詠人:鈴木大拙
年号:昭和41年
型式:自然石
丈:38cm 幅:62cm
場所:見晴台
思婦石(しのぶいし)
安理し代丹 可邊里見してふ 碓氷山
以萬裳恋え 幾吾妻路農曽良
(ありし代に かえり見してふ 碓氷山
いまも恋えゆく 吾妻路の空)
解題:ありし昔の碓氷峠に思いを馳せてみれば、日本武尊が旅の途中相模灘で今生の別れをした弟橘姫を偲ばれて「吾嬬者耶」と嘆かれたことを思い出す。その恋しい思いはわが身も同じである。
詠人:関 橋守(皇朝学士:横川の関所の長官)
年号:安政6年(自らの力で建碑)
型式:自然石
丈:100cm 幅:110cm
場所:群馬県 宮林(中仙道沿い)
相馬御風の歌碑
な里な里て おの礼起よかる 多可山の
古ほ里尓う津る そら能色かも
(なりなりて おのれきよかる 多可山の
氷にうつる 空の色かも)
解題:物事が成就して、山や空の景色は氷の表面に見事に写っている様に、自分の心が晴々と清らかである。
天然製氷の元祖である軽井沢の泉喜太郎氏が、自分の成功は軽井沢のこの清らかな水のお蔭であることに感謝し、建碑しました。
詠人:相馬御風
年号:昭和23年
型式:自然石
丈:115m 幅:110cm
場所:群馬県 御神水(碓氷川源流、中仙道から50m下る)
弁慶数字の歌碑
八万三千八 三六九三三四七 一八二
四五十三二四六 百四億四六
(山道は 寒く淋しな 一ツ家に
夜ごと見にしむ ももよ置く霜)
義経は豪忠臣武蔵坊弁慶たちと共に、兄源頼朝の発した追手から険しい山野道を逃れました。やがて冬近き晩秋のある日、一ツ家に幾夜かの宿をとりました。このとき弁慶はこの悲しい逃避行を数字に託して詠い、爪で石に彫ったと言い残されています。
詠人:武蔵坊弁慶と伝えられている
年号:不明
現在の碑は2代目で明治42年頃に建てられたものです。初代の物は天明3年の浅間山の大噴火とその後の土石流で行方知らずといわれています。
型式:自然石
丈:110m 幅:40cm
場所:宮林 大武士沢(神社より200m群馬側中仙道より一ツ家に80m下る。この下り道が最も古い中仙道です。)