御由緒・御祭神

当社は全国に3500社ほどある熊野の神を祀る神社の中で、古くより日本三大熊野の一社としてその御神徳が称えられて来た神社です。殊に、関東八州と信州より強い信仰を受けた崇敬神社です。

御祭神

御本殿
新宮速玉男命(はやたまをのみこと)心の健康の守護神上州群馬県鎮座
本宮伊邪那美命(いざなみのみこと)諸神の産みの神・祖先神県境鎮座
日本武尊(やまとたけるのみこと)当神社の創設者県境鎮座
那智事解男命(ことわけをのみこと)人生難題解決の神信州長野県鎮座

御由緒

烏午王札(からすごおうふだ)

神社の縁起によりますと、景行天皇40年(西暦110年)大和朝廷の命を受けた日本武尊は東国を平定し、武蔵国、上野国を経て碓氷坂に差し掛かりました。折りしも濃霧により道に迷われてしまいましたが、その時紀州熊野山の神使霊鳥である一羽の大きな「八咫烏」が現れ、なぎの葉をくわえ来て尊の御前に落としながら道案内をしました。そして尊は無事頂上に達することができました。これはまさに熊野の神のご加護と、尊がここに熊野の神を勧請したのが始まりです。

碓氷峠に立って自分が登って来た方角を振り返って見れば、そこには棚引く雲海が見られました。武尊はそれに海を連想され、東征の途中に相模灘で入水された弟橘姫おとたちばなひめを偲ばれ、辰巳の方角(=東南の方角のことで関東平野が一望できる)に向かって「吾嬬者耶あづまはや」(=「愛しき我が妻よ」の意味)と3度嘆かれたといいます。

以後ここより東の国を吾妻(あづま)と呼ぶこととなりました(日本書紀の記述による)。

これらの御由緒より、当社の周辺にはそれに因んだ地名が残っています。神社の裏山の頂上を留夫山(とめぶやま)(=武尊の足を留めさせた場所の由緒から付いた名前)。あるいは、長野原(ながのはら)や長倉(ながくら)は、嘆きある原が語源と伝わっています。

県境に神社が建ついわれ・意義

当社は群馬県と長野県の県境(江戸時代は上州と信州の国境)に鎮座しています。ここではそのいわれと意義についてご案内致します。

実は、県境にご鎮座されている「いわれ」や「意義」は明確には分からないのが現状です。しかし遡って、当時の時代背景を想像し、時代ロマンに思いを馳せてみましょう。

元来、山は幸を恵み、豊かな水を戴く生命の根源の聖地であり、従って神様の住む場所として昔より崇められて来たことは、碓氷峠に限ったことではありません。

さらに、明確な地図を持たない昔は、峠を制することはその先の地域を制する為に欠かせぬ要素だったのです。つまり峠は軍事的な要所だったのです。ましてそこに日本武尊(大和朝廷の東征の使者)が勧請した神が祀られているとなれば、両国ともに手中に収め、その神徳を戴きたいと思うのはごく当然であったとも思われます。

戦国時代には国境が激変し、武田信玄は広大な社領を神社に寄進したと伝えられてその地名(=鳥居坂から、鳥居原まで)も残っております。

その後、江戸時代の初めに中仙道の整備と共にお宮の真中を改めて上州と信州の国境にしたのだろうと言われています。江戸時代の途中で国境が変更されたとは伝わっておりませんので、それがそのまま明治時代に廃藩置県により現在の県境となりました。

当社の神職は上州でも信州でも共に「峠山(とうげさん)」と呼ばれ、人間社会のルールの為に2法人となっていますが、信仰上に境が在るわけではなく、「二世安楽」を叶える峠の権現様として里人の信仰を集めています。

尚、江戸時代上期の全盛期には信州および関東に10万戸の崇敬者を持ったと伝えられています。お宮から戴いた烏午王札(先に掲載)を峠の御師(おし)が自分の担当する○○の国○○村に出掛けて行き、熊野の信仰を説きながら配りました。御師一人平均千軒の崇敬者を持っていたようです。御師は100人ほど居たそうです。年に3回御神札を配った御師も居たそうです。この御神札の初穂料の半金が神社に奉納され、半金は御師の糧となりました。この頃に神社社殿の改修等が良く行われています。

ところが、天明3年に起きた浅間山の大噴火により、碓氷峠には5尺5寸の灰が積もります。この大噴火は地球の気象を変える程の物でしたが、殊に御師が出かけて行く関東は飢饉に何年も見舞われ、御師は御初穂を戴けづ、困窮し、止める者も続出、神社の営繕の為の蓄財も無くなって行きます。それでも江戸時代の終わりに40人ほどの御師が残っていました。現在も上州信州の近隣の村へは神職が御師に代わってこの御神札を頒布しております。

今でも上州と信州では、「共に相手を認め合って仲良くやっていきましょう」という平和の象徴的存在として神社が県境となっていると考えれば、うなずける気もいたします。

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